某所で話題になったので、劉備による漢中の争奪戦について考えてみようと思う。ただし、大よその内容は某所で述べたものと変わらない。

陽平関及び劉備の前進経路について

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陽平関は、曹操が漢中に侵攻する際、その北西故道より侵入する時に通った事から、また、諸葛亮がその第一次北伐の際に、沔水の北にある陽平から祁山へ向かった事からも、漢中と武都・祁山を結ぶ要衝であった事が分かる。すなわち、漢中から北西へ抜ける際に通る拠点である。

従って、南方より漢中を目指す劉備が、武都と漢中のどちらも手に入れていない状態で、陽平関に駐屯できる道理は無い。劉備は陽平関を経由せずに漢中に入ったと考えるべきだろう。その際に用いる道路は、金牛道もしくは米倉道となるが、米倉道は大巴山脈を横断する道であり、連絡線が脆弱になってしまう上、武都方面へと分遣する軍団との連携が取りづらくなるので、劉備がこの道路を選択したとは考えにくい。金牛道を選んだと考える方が合理的だろう。
米倉道は、かつて張郃が巴郡侵入の際に使った道路であるが、撤退の困難から張飛に散々に打ち破られた場所でもある。劉備が張郃と同じ轍を踏む事を考慮しなかったわけが無いだろう。

作戦の推移

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217年、劉備は漢中に向けて前進すると共に、まず呉蘭らを下弁に派遣し武都方面を抑えさせた。曹操は、曹洪・曹休を派遣してこれに対応している。
この武都方面への前進は、陽動であった可能性がある。定軍山で夏侯淵が敗死した後、魏軍は南鄭を押さえる事無く陽平へと撤退している事を考えると、劉備は敵主力を陽平にひきつけた後に陽平と南鄭との間の交通線を遮断したと考えるべきである。この武都への前進こそが、その為の陽動であったのではないだろうか?
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劉備もこれに応じ、張飛・馬超を下弁後方の固山へ向かわせ、その連絡線を遮断する態勢を取らせる事で呉蘭らを救おうとしたものの、曹休は冷静を保ち呉蘭らを先に撃破する事でなんなく下弁を奪還する事に成功する。
これは218年2月までに起こっている。
この武都方面での一連の作戦を受けて、漢中を守っていた夏侯淵は、劉備の目的が武都方面の制圧にあると誤解し、主力を率い陽平関に向かう事で、曹休を支援する態勢を取った。
この夏侯淵の動きは、その後の展開に当てはめる為に仮定したものであるが、戦略的側面を敵に晒す事の危険を認識せず、武都へと前進した事は些か不自然ではある。
この間に劉備は、北東へと前進し、陽平関と南鄭の間に入る事で、夏侯淵と南鄭との連絡を断ちつつ、陽平関に魏軍を押し込める事に成功する。

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次いで劉備は、陳式に嘉陵江を北上させ、陽平関の背後に進出させようとしたが、陳式は徐晃に撃ち破られ、この作戦は失敗する。
この作戦は、218年2月中に行われた可能性が高い。既に下弁が落ちている以上、馬鳴閣道の北上は武都での孤立を招く。この前進には、張飛らの支援があったと見るべきである。張飛らが曹休をひきつけ、その間に陽平後方に進出するというのがこの作戦の形であろう。魏書武帝紀において、呉蘭らの敗走と張飛らの撤退の時期がずれている事も、この事の証左と言える。
この作戦の目的は、再度武都を奪う事で、陽平関を孤立させる共に、呉蘭らの撤退支援もあったと思われる。

更に劉備は手を緩めず、広石の張郃に対し攻撃を掛ける。1万人を10箇の隊に分けて夜襲を掛けたが、張郃の奮戦で突破に失敗した。
広石は沔陽の西にあったとされている。恐らく、陽平関後方に進出可能な、狭隘な間道だったのだろう。ここの北側出口を押さえる事で、陽平関に圧力を掛けるつもりだったと思われる。

二度の攻撃に失敗した劉備は、成都へ増援を要請しつつ長期戦の態勢を取った。

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219年春、劉備は定軍山へ後退すると共に、興勢へと軍を分遣した。
戦力を増強し、敵に対する勝算が立った上で、迂回によって決戦に移行させる作戦であるが、興勢への前進が意図不明である。後退する事で南鄭と陽平との間の交通線が再度機能する事を恐れ、一部を漢水に沿って東下させて遮断の態勢を維持したと見るのが妥当かもしれない。そうなると正面が広くなり、多数の戦力が必要になるので、前述の増援がこの事を見越してのものだった可能性もあるだろう。

劉備は2月中には夏侯淵を敗死させ、敗軍を北へと追撃するが、漢水の渡河に躊躇した為に大きな被害を与える事が出来なかった。
この時、指揮官を失い混乱する中、郭淮は張郃を指揮官に推し立てつつ、後方配備による河川の間接防御を提案する事で、軍を全うしたまま陽平と撤退する事が出来た。
河川の後方に軍を配し、敵の半渡に乗ずるこの作戦は、孫子においてもクラウゼヴィッツの戦争論においても、有効な河川防御として述べられている。

3月、曹操が斜谷を通って漢中に襲来したので、劉備は要害を固めてこれに応じた。
曹操が陽平周辺まで進出した事を考えると、劉備は桟道出口に拠って防御したわけではない事が分かる。恐らく、漢水と漢中西部の山地を防塞として、曹操の攻撃を防いだものと思われる。
5月、曹操が撤退し、劉備の漢中支配が確立する。

私見

記述の整合性がとりづらく、考察しにくい戦役であった。特に興勢への前進は全く以って不可解である。
定軍山への後退から夏侯淵敗死までの短い期間に、興勢への前進を完了させると言う事は、南鄭を含む漢中の大部分の敵戦力を無力化してある必要がある。しかしながら、曹操が斜谷を通って救援に現れた時、彼は悠々と漢中への侵入を果たしている。
劉備の支配が、漢中西部の一地域に限定されていたなら、興勢への前進は甚だ危険なものだったろう。

また、本考察では夏侯淵の誤認と言う形で為したが、陽平と南鄭との連絡をどのように断ったかは、やはり不明である。